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特集「銀幕のアーティスト」

2018年9月3日

特集「銀幕のアーティスト8」③
セザンヌと過ごした時間(下)(2017年 事実に基づく映画)

監督 ダニエル・トンプソン

出演 ギョーム・ガリエンヌ/ギョーム・カネ

シネマ365日 No.2591

モンスター 

銀幕のアーティスト8

 セザンヌに対するゾラのコンプレックスはどうしようもなかった。エクスに引きこもった世捨て人など、今や足元にも及ばない作家としての成功を収めながら、ゾラはセザンヌを恐れていた。売れもしない絵を一日も休まず描き、叩き破ってまた描く男。あの自信はどこからくるのか。セザンヌと相対すると、自分は岩にぶつかるガラスコップのように思えてくる。女好きで酷薄で人を見下し、愛した試しがない。ゾラの妻カブリエルはセザンヌに言う。「あなたは女を幸せにしない。妻は妻の扱いも受けない。あなたとオルタンスの息子が16歳になっても結婚しない。ここへ来て私の料理はガツガツ食べるくせに、ゾラの家は最悪だ、10分おきに列車が通ると悪口を言う」▼オルタンス「私を見て。あなたの妻よ。私を抱いてもくれない。その女(オルタンスの肖像画)のせいね。私の代わりに絵の女を抱いている。私はどう。老婆? くそったれ。私は生きている。私は若くて美人なの。私は死体じゃない。あなたは目を輝かせて絵の女の頬を赤く塗る。髪を金髪にする。それで感じるのよね。色が何よ。クソだわ。絵をやめて戻ってきて、本当の人生に」。さすがにセザンヌはあやまる。「もういい。悪かった。でも絵はやめない。描きながら死ぬ」。オルタンスの怨嗟には、ゾラの『制作』の主人公とは比べものにならない、悪魔に身を売り渡したようなセザンヌの本質理解がほとばしっています。セザンヌの肖像画を見るゾラに妻は言う「やさしさも愛もない男の肖像よ。りんごのほうが人間らしいわ。誰も愛していない」ゾラが付け加える。「奴は自分さえ愛していない」▼セザンヌの最晩年に当たる1899年、ゾラが故郷エクスを訪れた。27歳年下のジャンヌを妻とし、ガブリエルはジャンヌの存在を認めた変則的な家庭だったが、子供二人を得てゾラは幸福だった。高名な作家を見ようと出迎えた人々の前で彼は挨拶した。「パリを離れたのはジャンヌと過ごすためです。娘と息子に父親の思い出の場所を見せたい」記者が質問した。「セザンヌさんの家には?」「元気かな。こまった男だ。彼は天才だった。だが才能は花開かなかった」。出迎えの中にセザンヌはいた。彼はゾラの言葉を聞いて寂しく去った。ゾラが自分をどう見ていたか、どう見たがっていたか思い知っただろう。ゾラはセザンヌを理解しようとなど思っていなかった。優位に立ちたかっただけだ。彼は畏怖し、払いのけたかったとてつもないモンスターを、弱い凡庸な男に書き換えて「制作」の中に閉じ込め、やっと安心したのだ。画商のボラールとセザンヌが話している。「俺はゾラが好きだった」「なぜケンカしたのです?」「ケンカじゃない。口を開けば使用人がどうの、出版がどうの、まるで大臣の執務室を訪問するようで、やめたのさ」▼歿年のたぶん1、2年前に描いた「サント・ヴィクトワール山」がある。余白が多く、山というより、海に浮かぶ船のようだ。セザンヌの絵には年とともに白いスペースが増え、彼は「意図的な未完成」と呼んだ。白い部分は徹底的に検証されており、書き込まれた風景や物体より精緻な完成度を与えた。そう思わせるのはほかならぬ、絵を前にした私たちの脳なのである。空白が喚起させる無数の情景、視覚のない視覚、そんなものを与えた画家がいるだろうか▼もしゾラがいち早くそれを感じとっていたとすれば、小説の中に封印したくなっても不思議はなかった。「芸術とは一種、生き方であります」とリルケは手紙に書く。「書かない私はみじめだ」とパトリシア・ハイスミスは日記に書く。どっちも魂を売り渡す以外に生き方を知らなかった。一種の性格破綻者であり、社会不適合者の見本のような人物だった。セザンヌが絵を描かず、ハイスミスが小説を書かなかったら、野たれ死か、アルコール依存症か、精神病院か刑務所に入っていたのは疑いがない。誰にも真似のできない生き方を貫いた人間に羨望を覚える人はいる。それが幸福だったか不幸だったかは知らないとしても。