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特集「銀幕のアーティスト」

2018年9月5日

特集「銀幕のアーティスト8」⑤
アイリーン・グレイ 孤高のデザイナー(2017年 ドキュメンタリー映画)

監督 マルコ・オルシーニ

シネマ365日 No.2593

見たことのない生命体 

銀幕のアーティスト8

本編の解説の大部分はアイルランド・国立博物館のキュレーター、ジェニファー・ゴフ博士、写真家のフィリップ・ガーナ・クリスティーズ、キャロライン・コンスタント・ミシガン大学教授が受け持っています。アイリーンはアイルランド出身のインテリア・建築デザイナー。1878年に生まれ1976年98歳でパリに没した。34歳のときパリにインテリアデザイン事務所を開設しパリを拠点に活動する。本作の中心は彼女の設計によるヴィラ「E1027」を巡るル・コルビュジエとの抗争です。それには当時のグレイの恋人だったジャン・バドヴィッチが絡んでいます。グレイが40代、ジャンが23歳のとき二人は出会い、グレイは二人が住む家として「E1027」を建てましたが、ジャンの女癖の悪さに辟易して家を出ている。ル・コルビュジエはグレイの才能に嫉妬し、グレイに無断で家に数点の壁画を描いた。そうしろと勧めたのはジャンで、「退屈で生気のない壁に彩りを与えるため」とル・コルビュジエは取材に答え、ジャンは否定しなかった▼これについてゴア博士は「ル・コルビュジエの行為はグレイの構想を破壊した。壁画が必要なら自分で描いた、とグレイは激怒し、あなたの虚栄心が私の人生を台無しにした、とジャンからル・コルビュジエに伝えさせた。壁画によってル・コルビュジエとの関係は修復不可能になった。二人の間に特別なものがあったことはうかがえるが、ル・コルビュジエは人に好かれる人ではなかった。侮辱的だったのは、壁画の発表時にル・コルビュジエはグレイの名前を伏せたことよ。そのせいでどの文献においても家の設計者はバドウィッチかル・コルビュジエと推測され、彼も訂正しなかった。ル・コルビュジエの取った行動が、設計者の特定問題を複雑にした。世界一有名な建築家である彼が弟子に言った。アイデアは自分でグレイが盗作したと。グレイとは誰かと訊いても語らなかった。彼女を知っていたのに黙殺した」▼本作から浮かび上がってくるのは嫉妬深い高名な建築家と、才能のない酒飲みで女にだらしないグレイのパートナー。男と別れ、ル・コルビュジエと交際を絶ってから、グレイは建築史の表舞台から消える。再発見されたのは1960年代だった。グレイは80代だ。彼女はほとんどの資料を破棄したし、自分から語ろうとしなかった。30年間の沈黙時にも積極的な行動を起こしたようには見えない。アイルランドの貴族の出身で、母親は彼女の創作活動のために十分な資金を充てた。経済的に不自由のない身分だったことが無益と思う争いを回避させたのか。彼女は親密な女性の友人がいたし、恋人の一人は歌手のダミアだった。顧客は社交界のセレブの女性たちだった。しかしどんな資料より彼女の残したわずかな家具や椅子が、人となりを雄弁に語る。究極のミニマニストと言おうか、「E1027」はほとんどが空間と平面の、見通しも風通しもいい家であり、シンプルな自作の椅子や机がぽつんと置かれていた。そこは考える、耽る、読む、空想する場所だったに違いない。恋人の女性もいたが、しかし、こんな部屋に住む女性に男であれ女であれ、恋の対象は必要だったのか。34歳のとき、ダミアのために作った椅子は「セイレーン」と題された。甘い歌声で船乗りを誘惑し、座礁させる妖精だ。イヴ・サンローランのパートナー、ピエール・ベルジエの所蔵品がオークションにかけられ、グレイの椅子「ドラゴン・チェア」が当時最高の28億円で落札された。丸みを帯びた小さな椅子だ。奇妙な円形は、うずくまる女のような官能を思わせる。グレイのエロチシズムとは精錬と同義語だった。見た目のふっくらしたぬくもりや豊かさより、これ以上必要ない限界まで無駄を剥ぎ取ったもの。それを美というのは簡単だが、家具でもなく椅子でもなく、デスクでもない、見たことのない生命体が息づいているようにも思える。