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特集「美しい虚無-妄想映画の魅力」

2019年1月18日

特集「美しい虚無=妄想映画の魅力8」⑧
ベビー・ルーム(下)(2006年 劇場未公開)

監督 アレックス・デ・ラ・イグレシア

出演 ハビエル・グティエレス/レオノール・ワトリング

シネマ365日 No.2728

愛は過ぎゆくもの 

美しい虚無=妄想映画の魅力8

 アレクサンドル・アジャの「ミラーズ」が同じ主題を扱っています。鏡の向こうに自分が位置する現実とそっくりなもう一つの世界があり、主人公がそっちの世界に飲み込まれてしまう映画。パラレルワールドに行き来するには入り口を見つけないといけないのですが、一度入り込むと二度と出て来られない設定は同じです。ファンは妻を助けようと鏡に中に入り、代わりにもう一人のファンがこの世界に現れ、そいつは妻と子を殺す殺人鬼だったと。映画の冒頭に、子供が水たまりを覗くと自分と同じ顔が映っているシーンがあります。なおも見ていると、水の中の子はニヤリと笑い、腕を伸ばして外側にいる子の首をつかむと水の中に引きずり込む。超心理学とか「猫」とか、量子力学の解釈は難しいし、よくわからない。ついていけない言い訳として「プラトンの洞窟」を考えてみました▼生まれた時から洞窟に住んでいる住人たちがいて、壁に向かって横一列に繋がれている。彼らは前しか見ることができない。背中側に壁があって、壁に沿って通路がある。通路の所々に篝火があり、通路を通る馬や人の影が住人の目の前の壁に映る。つまり彼らが見るのは実物の影だが、実物を見たことがないので、それが影ではなく本物だと思っている。住人の一人を外に連れ出し、太陽に輝く色とりどりの世界を見せても、それが現実だとは信じない。洞窟に戻ってその話をしても狂人扱いされる。影しか見たことのない住人にとって影が現実なのだ。つまり自分が信じたものが現実なのであって、たとえ人から「いや、これが本当の世界なのだ」と示されたところで信じられない。たとえば、私たちがとらえる愛というものの正体も、洞窟の影のようなものではないか。それが愛だと信じる人にとってのみ愛は存在する。モノクロだろうがカラーだろうが関係ない。愛は洞窟の影のように、絶え間ない心の変化と自分の想念の中にしかない。固定されず、定型をなさず、過ぎ行くものだ▼パレレルワールドとか、もう一つの世界というのは、イマジネーションの中でしか呼吸しない生物と同じで、そんなものあるものか、と言ってしまえば成り立たない世界がある。ドミンゴの言う「我々が現実だと思っている今の世界も、無数にある世界の一つにすぎないかもしれない」平たく言うと、実は今いるここだって、あの世の一つかもしれないと彼は言っているわけね。現実と非現実はアートの二大領域であって、作家は絶えず二つの領域を行き来する。目の前にある風景を描いてしまえばもうそれは現実ではなくなる。何かを思い描けば瞬時にしてイマジネーションの世界に跳んでいる。異世界に入る境界はその人の感性にもよるが、簡単に乗り越えられてしまう。「ラースと、その彼女」という虚無と妄想に満ちた美しい映画があった。人形を生きた恋人として教会に連れてきた青年を、アタマがおかしいと批判する人々に、しっかり者の主婦が言い返す。「ご近所におかしな人はいっぱいいる。猫に服を着せたり、UFを信じたり、ラースはいい子よ。ビアンカ(人形)を教会に連れてきたって構わないじゃない」。ラースの主治医の言葉がいい。「ビアンカは必要があって現れたのです。彼女が病気になるのも治るのも、ラースがしていることなのです」。イマジネーションは必要があって心に現れる。愛もまた必要があって現れ、必要があって去り、過ぎゆくものなのだ。美しい虚無のように。