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特集 LGBTー映画にみるゲイ

2019年3月2日

特集「映画に見るゲイ11」276 
リプリー(下)(2000年 ゲイ映画)

監督 アンソニー・ミンゲラ

出演 マット・デイモン/グウィネス・パルトロー/ジュード・ロウ/ケイト・ブランシェット/フィリップ・シーモア・ホフマン

シネマ365日 No.2771

来るべき時代の主人公 

特集「映画に見るゲイ11」

 パットの虚構観はリプリー・シリーズの贋作ものによく出ていますが、本作のセリフにもそれを見ることができます。アンソニー・ミンゲラ監督はきっちりそこを押さえています。リプリーが新しく恋人になったピーターに言う。「たとえどんなに酷く、恐ろしい行為でも、頭の中では理にかなっているのだ。誰も自分を悪人だと思わない」ピーター「でも人を殺したら苦悩するはずだ」「自分の過去を暗い地下室に押し込め鍵をかければいい。でも大切な人にはその地下室を開ける鍵を預けたいと思う。扉を開けて中に入っておいでと。扉を開け放ち大きな消しゴムで過去を消したい」リプリーの愛の告白に対して「僕に鍵はくれないのか」とピーターが受けています。この誠実な恋人もリプリーは殺しちゃうのですけど▼パットは罪の意識のない人間を描きたかった。誰の心にも悪は存在する。であれば悪の「成りかわり」のような人間がいてもいいはずだ。パットは精神的不感症の男や女を描きたかったのではない。繊細で知性的で本物の審美眼を持ち、世俗に溶解しない貴金属の鉱石のような冷たさを持つ主人公。パットの小説の主人公はほとんど男性ですが、彼らはパット自身だとみなして差し支えない。フローベルが「エンマ・ボヴァリーは私だ」と言ったのと同じ意味で。やさしい女性の恋人がいながら「やさしすぎる、できすぎる、居心地がよすぎる」と、訳のわからない理由で別れることもあったパットです。社会から逸脱したマイノリティの、アブノーマルの、反モラルの自分を小説に描き出そうとすると、リプリーみたいになった。彼が世間からどう見られようとパットにとっては「理にかなっている」のです。だから「リプリー」という新しいタイプの犯罪者を完成させた時はうれしくてたまらず、大好きな祖母にいちばん先に読ませたくてコピーを送っています。当時80歳を超えていた祖母は、出版まで生きているかどうか、パットは心配でたまらなかった▼ディッキーの友人であるフレディ(フィリップ・シーモア・ホフマン)が重要な役割を果たします。彼はトム・リプリーという「ニセモノ」をいち早く見抜き、さんざん嫌がらせをして殺される役です。富豪令嬢のメレディス(ケイト・ブランシェット)は、トムを御曹司だと信じ惹かれ、でも彼女につかまるとバケの皮が剥がれてしまうトムは言葉巧みに振ってしまう。涙を隠すケイトのやや大げさな演技も、世間知らずな富豪令嬢だと思えば不自然ではない。しかしながらこればかりは残念でした。トムはピーターを殺し、場所は船の中、逃げ場はなく遠からず正体はばれる。つまりお縄になることを示唆しているのは、ルネ・クレマンの「太陽がいっぱい」と同じです。パットは同作でリプリーが逮捕される(であろう)エンドがどうしても気に入らなかった。アラン・ドロンのリプリーは褒めちぎっていましたが。ともあれ、罪悪感のない犯罪は今に至って増加の一途をたどっている。その見地から思えば、過剰な情報で混乱と荒廃をきたした人の心が、いずれたどり着く無機質な感情世界(パットはそれを人間の一典型として創造しました)を、彼女の主人公は予感させています。