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特集 LGBTー映画にみるゲイ

2019年3月4日

特集「映画に見るゲイ11」278 
美しさと哀しみと(下)(1965年 ゲイ映画)

監督 篠田正浩

出演 八千草薫/加賀まりこ/山村聰/山本圭

シネマ365日 No.2773

川端と秋吉 

特集「映画に見るゲイ11」

ノーベル文学賞選考委員たちは川端の小説のどれを読んだのでしょう。全作のはずはない。「雪国」かな。早くから翻訳されていたしね。「美しさと哀しみ」は読んだのでしょうか。どうかなあ。けい子が大木を誘惑し、ホテルに入って大木がいざ…という段になって「左はダメなの」「誰か一人にしか触らせないのか」「先生、上野先生」(ギョッ)大木は引いてしまい、何もできなくなるのですけど。この時は「左」ね。のちに京都まで口実をつけて出張した、大木の息子太一郎が、同様のケース。「右はイヤなの。堪忍して。あーっ」。どっちなのよ。右の乳房は触らせない。左も触らせない。その理由がいまいち具体的に言及されていない(ように思う)。行間を読め、と言うかもしれないけど、映画に行間もヘチマもないでしょう▼川端の研ぎ澄ましたような文章の美しさは大好きですよ。でもね、本作の「右」と「左」には参ったわよ。けい子は劇中再々「魔性の女」と言われるのですが、これって川端の好きなテーマね。彼はまるで日本霊異記の住人です。「眠れる美女」なんか完全にあっちの世界よ。けい子「先生、大木先生を殺してやりたいと思ったことは? 私だって大木先生の子を産める。その上で葬るというのはどうでしょう。私だったら感情なしで産めるのです。私には音子先生しかいないんです」音子は、何しろ八千草薫が演じるのだからノーマリティが着物を着たように端正です。たじろぐ音子に「先生の怖がり」後ろから首筋にくっつく。けい子に男たちは振り回される。太一郎は大木の息子、ヘタレジュニアです。せっかく人里離れた寺にけい子を連れ出しておきながら、七面倒くさいことばかり言っている。それがおかしくない時代だったのですが、首をひねるのは、このわかったような、わからないような、どうとでも取れるヌエみたいな川端の世界観が、よく外国人に受け入れられたな、ということ▼ノーベル文学賞が、そもそもマイナーな作家に光をあてるものだとすれば納得ですが(その割にはボブ・ディランみたいなメジャーなお騒がせもいたけど)。たまたま秋吉敏子の「渡米35周年記念CD」を聴いていたら(彼女は今年=2018年=渡米50周年の新盤を出しました)中に「チルドレン・イン・ザ・テンプル・グラウンド」がありました。相馬地方の民謡「かんちょろりん節」をアレンジした秋吉のオリジナルです。冒頭に日本語の民謡を聞かせておいてジャズ・パートに入る。日本の伝統を自家薬籠中にして、ジャズと合体させた秋吉の天才に脱帽。ふと(川端の小説が認められたのもこれかも。日本と、日本の美しさへのこだわりかも)…受賞記念講演で「わたしは日本の笛一管」を持つだけと言っていなかったっけ? ここから先はわたしの仮想空間です。選考委員たちが意見を述べ合っている。「君、乳房の右と左とどっちが正しいのだろう」「正しいとか間違っているとかの問題ではありません。そういうことにこだわるべきではないのが、世界のどこにもない、カワバタの感じ方なのです」「オオキというのは随分無責任な男だと思わないかね」「日本の伝統表現に、色男金と力は、なかりけり、というのがあります。無責任・無能力に対する独自のこだわりと判官贔屓があるのに違いありません」「なんというユニークな美の範疇だ」「息子は琵琶湖で死んだのか、助かったのかわからないのだね」「彼はカナヅチだと思われます。ヒロインがボートに乗ろうと言った途端二の足を踏んでいる。にもかかわらず日暮れの視界不良時に沖に出るなんて無謀だ。カワバタはあえて死んだと書かず、男の浅慮をかばったのです。武士の情け、すなわち日本人の精神的伝統美ではないでしょうか」「そうか、わかった、決まりだ!」アハハ、ホンマかいな。