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特集「クロード・シャブロルの時間」

2019年12月2日

特集「クロード・シャブロルの時間」② 
気のいい女たち(1960年 劇場未公開)

監督 クロード・シャブロル

出演 ステファーヌ・オードラン/クロチルド・ジョアノー

シネマ365日 No.3045

信じちゃいけないよ 

特集「クロード・シャブロルの時間」

クロード・シャブロルという監督の世界観は、若い時から一つも変わっていないのだとつくづく思わせられる。本作を撮ったとき30歳だった。初めてシャブロルを見たのは本作の35年後の映画「沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇」だった。ルース・レンデルの原作が映像のソナタになったようなショックを受け、なんでもいいからシャブロルを見始め、終始一貫この監督が描き出す静かな狂気にいかれてしまった。「気のいい女たち」にもすでにその兆しがありありだ。シャブロル自身が公開当初「汚らわしい映画だ、女性軽視をひけらかしていると書かれた」と述懐しているように、クソミソだった。あまりの後味の悪さに批評家は辟易したのだろう。でもそれ以後ずっと、シャブロルが「後味のいい」映画を撮ったなんてあったかな▼それなのに彼のどこに惹かれたのかというと、底にある女性への温かみというか、粉飾を取り払い、あっけにとられるほど愚かで唾棄すべき人間の登場…本作では夜更けのパリで女性に声をかけ、しつこく誘って部屋に引き込み、次に偶然プールで出会うと、恥も外聞もなく乱痴気騒ぎで女を漁る中年男たち二人。シャブロルが「軽視」しているのは女性だけではない。こんなふうに描かれれば大抵の男性は男を弁護する気概も失せるだろう。しかし決定的な魅力は、誰しもが備える日常からの降下、転落、逸脱、どう呼んでもいいが、異界に滑り込む入り口を手品のように見せる手際だった。映画というより完成された文章を読み下すような流暢な自然体でそれはなされる。街の家庭電化製品の店で働く4人のパリジェンヌがいる。個性とか特色とか皆無である。日常的な期待、ありふれた人生への嘲笑、貧しい所得、エロジジイの雇い主、結婚する相手から「君、パパと話すときは音楽や絵画に興味あるふりをしてくれよ」と注意され、楽しくも嬉しくもない会食の席に、ビクビクしながら座っている女▼シャブロルは恋人たちを動物園に連れて行き、檻の中の動物を見せる。堂々たるトラが狭い格子の中でグルグル円を描いて歩き回っている。どうだ、人間の人生によく似ているだろうとでも言わんばかりだ。彼は30歳にして人生とは諦観だと知った男である。自分の仕事はその事実を掘り下げ、深め、途中で死んだら「ハイ、それまでよ」そういう諦観である。彼の場合、諦観とは雑念のない意識であって、シャブロルの描く人々はあっという間に現実の隙間から異世界に侵入してしまう逸脱者たちだった。逸脱したという言い方すら正確ではないと思う。本人たちにとっては逸脱どころか、そこが安住の世界なのだから。本作では革ジャンを着たチョビ髭のストーカーがそれだ。彼は目当ての女性、ジャクリーヌ(クロチルド・ジョアノー)とこんな会話を交わす。「楽しいかい? 愛してる?」「せっかちね。昨日会ったばかりよ。なぜ私をつけていたの?」「好きだったから」「信じていいのかしら」「もっと気楽に話そうよ」彼らは森の中に歩いて行く。「君をつけたのは二人が求め合ったからだ。でも愛じゃない。つまり、つけるような男を信じちゃいけないよ」そう言いながら男は女を殺すのだ。気のいい女たちとは何とおぞましいタイトルだろう▼本作は興収大コケ。当然だった。ケチでもついたようにシャブロルの映画は不評ばかりだった。「女鹿」で息を吹き返すまで、ざっと7年、シャブロルの「塩漬け」は続く。「女鹿」の成功は清純派代表のジャクリーヌ・ササール始め、登場人物たちが社会の梯子を一段、また一段と踏み外していく気色悪さにあった。「気のいい女」から「不気味な女」へ、以後シャブロルのヒロインは青い、透き通った変身を遂げていく。

 

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