女を楽しくするニュースサイト「ウーマンライフ WEB 版」

  • facebook
  • twitter
  • line
  • rss

枝雀の時間

2021年4月7日

特集「枝雀の時間」⑦ 
「山のあなた」(上)枝雀のファンタジー

関連キーワード:

出演 桂枝雀

シネマ365日 No.3528

おります? どこに?

特集「枝雀の時間」

枝雀は後期、盛んに新作落語を創りました。いずれもショート・ショートの趣があり、古典落語の大ネタとは違いますが枝雀の好みや世界観、人生観が色濃く反映され、言うなれば短編小説の名手の手になるような趣があります。「山のあなた」はカール・ブッセの詩を上田敏が訳したもの。枝雀はこれに詩想を得て落語にしました。ヒロインは峠の茶屋のおばあさん。女性に喋らせる長いセリフとしては「口入屋」の御寮人さん、「舟弁慶」の長屋のおかみさんがいますが、このおばあさんも実に味がある。のちに「おばあさん三部作」と言われるうちの一作です。おばあさんの話し言葉はナニ弁か私にはわからない。枝雀が語り口調のいいようにこしらえたオリジナルかもしれない。「さいわい」を「さぁーわい」と、「抱きかかえる」を「だっかまえる」と発音して噺を進めています▼毎日が同じことの繰り返しだとぼやく中年のオヤジが、町の喧騒を離れ山に来た。峠の茶屋でおばあさんが茶を出してくれた。長年ここに住んでいる。たまには静かな場所もいいが退屈しないかとオヤジが尋ねる。いいえ。目の前の山は町の人から見るとただの緑だが、日に日に、刻一刻浅い緑から濃い緑に変わる、同じ緑は1日としてない、とおばあさんは答える。オヤジは「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う、いうけど、やっぱりこういうところに幸いはあるのやろ」と話しかける。「“さぁーわい”ですか。ハイハイ、おります」おります? いぶかしんだオヤジが「どこに?」。ここから「見えますでしょ。峠二つ越えたところに広い原があり、そこにおります」「おるって生きモンみたいやな」「生きとるちゃ、生きとるようなモンです、ウロウロしとるのです。一口にゃ言えません。白い、フワフワしたモンです。どこが尾やら頭やらわからん。見えますか? あの小さな小屋に住んでいるヒゲはやしたおじいさんに連れて行ってもろうたのです。おじいさんには“みどろが池”で会いました」▼おばあさんは生まれてすぐ両親に死に別れ、他人の家で辛い暮らしをした、鏡をみたら自分でも吹き出すくらいの不器量なうえ、陰気で暗く、男がいいよるどころか女友だちもできなかった。たまにひょっと嬉しいこともあったが「友だちはおらん、身寄り、たよりもない。喜びというものは、こんなことがあった、そうか、よかったなと言ってくれる人がいて初めて喜びごとじゃけん、話す人がいなけりゃ、喜びごとも喜びごとじゃありゃしません」▼枝雀が「おばあさん」の言葉で喋り出したとたん、高座は一変する。脳内に山の風が頬に当たるのを感じ、青い山々が遠くに続くのが見える。枝雀の語り口が一挙に落語空間をこしらえるのだ。おばあさんは「死んだら親に会える、会ったら恨みごとを言うだけいい、そのあと胸に飛び込んで抱いてもらおうと思いました。するとヒョコヒョコやってきたおじいさんが、恨んで死んじゃダメちゅうことです。死ぬ前に“さぁーわい”をつかましてやるけん、ついてきイさいと言い、行くと白いフワフワしたモンがウロウロし、見ただけで気持ちがスーッとしましたわね。これが“さぁーわい”か。だっかまえようとしたらパーッとおらんようになります。おったと思ったのにおりませんですね。その不思議なお人は“さぁーわい”ちゅうものは無理に捕まえようとすると消えてしまう、ちゅうのです」。幸せの正体が枝雀によって肉付けされていきます。客席は静まりかえり、お客さんたちは笑うことさえ忘れています。

 

関連キーワード:

あなたにオススメ