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特集「銀幕のアーティスト」

2021年12月30日

特集「銀幕のアーティスト13」⑪
ルキノ・ヴィスコンティの世界(上) (1999年ドキュメンタリー映画)

監督 カルロ・リッツィアーニ

シネマ365日 No.3796

ヴィスコンティの剛腕

ルキノ・ヴィスコンティの生涯と作品を手際よく理解出来る格好の手引書です。でもちょっと肉声が薄かった。彼の映画作りの本質は自らを異端者と自覚することからだったと思っていたので、そこが物足りなかった。カルロ・リッツィアーニ監督によれば「彼の父・ジュゼッペはミラノの貴族の公爵、周辺の歴史に必ず登場する名家の当主です。20世紀初頭、グラッツァーノで13世紀の古い城を修復し中世風の村を作ろうと計画した。村の住居や商店などを自分で設計し、農場や工房を作り職業学校を設置した。ルキノは5人の兄弟とともに城で休暇を過ごした。親族や友人が集まって開いた演劇会がルキノに芝居の魅力を教えた。コモ湖畔の別荘は大富豪の令嬢だった母親が相続したものだ。ここでも演奏会や演劇会が開かれるルキノに影響を与えた」が、「一族や母親の影響は長い間意識されなかった」というのが意味深だ。残念なことに母親との深い愛着は本作でそれ以上触れられていない▼残る母カルラの写真を見ると、彼が後年ミューズとした女優たちは母親のイメージを受け継いだものとわかる。目や鼻のどこがどう似ていると言うのでなく、一目見て受け取る明晰な印象。ルキノの濃い顔立ちは母親の刻印だろう。なんでも出来る環境に身を置き、社交界の中心にいる才能ある真面目な青年にひとつ、できないことがあった。一身を捧げるに足る“献身の対象”がまだなかった、というより出会えていなかった。ルキノは競馬に熱中しイギリス風の厩舎を建て(今もサン・シロ競馬場の近くに残っている)サンツィオという名馬を育てた。28歳の時だ。これは自分の将来に行き暮れていた青年が、馬に情熱を注いだとしか思えない。彼が映画に接近したのは1934年、ベネチア・ビエンナーレだった。G・マハティ監督がルキノの自主製作に注目し、ロンドンに呼んで製作者を紹介したが失敗した。だがルキノはココ・シャネルに紹介され彼女の輪の中の綺羅星、ジャン・コクトーやジャン・ルノワール、ピカソ、ブラック、マチスらを知る。しかし映画を作りたいと語ったことは一度もなかった。献身すべき彼のミューズはまだ眠っていた▼彼はゲイだった。異端だった。彼の作品には反体制・反社会的なアウトサイダーでなければ感じ取れない何かが基本にある。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で犯罪者を主人公にし、賛否両論が分かれたが、ヴィスコンティにすれば社会と人間の有り様を正しく捉えるためには、陽の当たる部分だけでは描ききれなかったからにすぎない。「ベリッシマ」は貴族でも名家でもない労働者階級のおかみさんの、娘への溺愛だった。幼い娘がオーディションで泣くシーン、ゲラゲラ笑う審査員たちに「なぜ笑うの? 何がおかしいの?」と母親は表情を険しくする。愛する娘が泣きながら一生懸命やっているのに、笑う連中など外道である。むき出しの愛情の温かさ、強さ、素朴さ。母親とはこういうものだと演技論もヘチマもなく、ヴィスコンティは納得させた。剛腕だった。

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